凡人として生きるということを読んだ感想

みなさんこんばんは。

 

今回は凡人として生きるということを読んだ感想です。

 

自分の生き方について見直すため読むことにしました。

 

以下、書籍より引用した文章については下記のボックスで囲みます。

著者は?

著者は押井守氏です。

攻殻機動隊やイノセンス、スカイクロラの映画監督で有名な方です。

 

印象に残った内容は?

生き方について書かれています。

押井氏の考えが目白押しです。

 

若者ぶるオヤジの愚かさ

本当に分別のあるオヤジならば、映画やテレビの虚構の人生に共感することはあったとしても、ファッションやスタイルをそのまま真似するような行為には走らなかったはずだ。それを、「ちょい不良がかっこいい」などと提示された、表層的な、しかも虚構のスタイルに本気になって踊らされ、自ら騙される側に回るオヤジがいたとしたら、本当に救いがない。

それどころか、若い人と同じことをやろうとして、ファッションや車に走り、それがかっこいいなどと思っている中年もどうやらいるらしい。僕に言わせれば、彼らは単に未熟なだけであり、成熟した大人の分別を持つオヤジとは、到底言えないと思う。

若いことは無知で、オヤジの戦略にはまり若者がお金を浪費していると説きます。

ただ、その戦略にオヤジがハマルのは救いがないと書いています。

 

世間にはびこるデマゴギー

だから、僕が若者に言えるのは、「今の自分は何者でもないし、平凡な人間なのだ」とまずは気がつくことが重要だということだ。本来の意味の可能性はむしろ、そう気づいたところから始まる。映画専門学校を出れば映画監督になれるかもしれないといった漠然とした幻想ではなく、本当に自分がやりたいことを見据えて、そのために今自分がやるべきことは何かを見定めることから、やり直すべきなのだ。

映画専門学校に入ることで、なれもしない映画監督への夢に希望を持つ。それは実際には、親と経営システムによる幻影と説いています。親は直接お前に才能がないというと反発される心配があるので、専門学校という形で諦めるのを待つ。さらに、学校経営は、それによりお金を稼ぐことができるシステムになっています。

これは実際に映画監督だからわかる事実なのかもしれません。私のような素人にはわかりませんが、実際そうなのでしょう。

ただ、若者も努力をすれば、可能性はあると思うのは、夢を見過ぎでしょうか。

 

社会と関わることの愉しさ

この社会では他人の人生と関わり、他人の人生を背追い込むことぐらいに楽しいことはない。それは恋愛でも、結婚でも、就職でも、起業でも、同じことである。逆にいうと、誰からも必要とされない人間ほど寂しいことはない。人は誰かから必要とされて、本当に生の喜びにひたれる。

若者はオヤジと比べて自由ですが、筆者の目から自由だとは思えないと言います。

その理由として、社会との関わりがないからだと主張します。

オヤジは、家庭と会社という二つの世界を持っており、その社会と関わることが楽しいと言います。確かに、デイトレードなので生計を立てている人は、社会との繋がりも希薄になるため、実世界に生きているとの実感がなくなるかもしれません。

幸せの一つの要素として、若者の育成が挙げられます。若者を育てることは、幸福度が増す一つの要因であると、何かの本で読みました。そのような社会の関わりを持っていないものは、自由でないのかもしれません。

 

ロリコンは人類によって「発明」された

ところが、『ロリータ』が書かれたことで、未成熟なメスを求めるという不可解な行為は、社会的な認知はされなくても、少なくとも文化的、文学的には認知されたことになる。まさにロリータコンプレックスは人類によって「発明」されたのである。

性欲などの本能にも、文明化が及んでおり、あらゆることが商品化されていると説いています。

江戸時代にあることで欲情したことも、現代では通用しないでしょう。それは文明化が進んだことにより、それぞれ時代にあった性欲が現れたということです。つまり性欲は本能から、文化的になったということです。

これからも時代が進むことで、それぞれの時代にあった性が描かれていくということです。ますます、現代と未来の人では思考が乖離していくような気がします。

 

正体を明かしてこそ手に入る社会性

自分の作品に対する世間の評判にしても、筆者が正体を表さない批評に耳を傾けるつもりはない。だが、ネットで発言したい人がいることは理解できる。それこそが、「社会につながりたい」「社会に対して何か発言したい」という、社会的動物である人間の根源的欲求だからだ。

ただ、言いたいのは、正体を隠してネットで発言するより、もっと面白いことがこの世界にはあるはずだと、ということだ。ハンドルネームで正体を隠したどこの誰かでなく、ちゃんと自分を自分として認めてもらえる世界があるのだ。

匿名で批判する人は、尋常じゃないほどの人数がいます。

しかし、匿名での主張に社会性はなく、その行為は社会性の保留行為だと説いています。

確かに、匿名行為での批判は傷つくものはありますが、本来価値のない行為のようにも見えます。私もブログを長年やってきたので、「死ね」などの発言も多く聞き、そのたびに落ち込んできました。しかし、そのように落ち込む必要はなかったのかも知れません。

 

僕もあなたも天才ではない

自分だったら、こういう映画は作らないとか、あの場面はこういうふうにするとか、書き付けているうちに、それが訓練となっている。初めは好きで始めたものが、いつの間にか僕は自分なりの映画製作をノートの上のシュミレーションとして実践し、訓練していたことになる。「天才少年だ、何だ」と言われもしたが、いきなり絵コンテを切れたのは、この訓練のたまものだったのだ。

結局、才能というものはほとんど関係なく、努力をしたかによるものだと主張します。押井監督もそのような経験によると言っていますし、私もそう思います。結局は適切な努力をしたかということです。監督は、他の作品に対して、考察を進めていったことにより成功しました。

これはどの分野でも重要なことだと思います。

 

感想

最初は、押井監督の若者批判的な内容で読みにくくもありましたが、監督という尖った仕事上、そのような考えではないとやっていけないのだろうと思いました。

後半、監督の主張は面白く感じられ、納得できるものもありました。第四章セックスと文明論は、面白く読めました。

全体的に私好みの内容ではなく、主張の強さを感じましたが、自分とは別の意見に触れるのは面白かったです。

また監督という職業の人の、思考を垣間見れたのでそれは価値がありました。